少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。
何気なく、本棚に向かって何冊か本を手に取る。パラパラとめくり、また本棚へ戻す。知識を得るための読書ではなくて、乾いた心を潤すような読書がしたい時がある。
それは、どうすることも出来ない現実への不満や苛立ちを代弁してくれるフレーズを探しているからかもしれない。
今日、ふと手に取った村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」の冒頭を読んで、そんなことを思った。
当時の村上春樹は大学を卒業後、喫茶店を経営し、本を書くことを生計を立てようと本を書いている30代はじめ。一方、30歳が目の前に迫った僕は、彼の書くフレーズに自分を重ねることができる。何かを始めることについて、遅すぎることは無いし、完璧な文章など存在しないのだけれど、自分自身が書ける領域は狭い。このジレンマの中で、
「今、僕は語ろうと思う。」
と語る事を決意する。そして、
「少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。」
と言い切る。
この吹っ切れとも思えるような潔さとさわやかさの中に、芯の強さをも感じるのは8年間のジレンマを体験したからなのではないか。やはり、自分の中から湧き出るものが出るには、大量のインプットと処理が必要なはずだからだ。
自分という存在をどこか限定せずに、多くの対象で力を発揮できるように、貪欲に様々な事を学び続けたいと強く思う。そして、常に「少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。」と言えるよう、アウトプットのレベルを保ちたい。
「完璧な文章など存在といったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向かってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。
しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。
8年間、僕はそうしたジレンマを抱き続けたた。ー 8年間。長い歳月だ。
もちろん、あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの苦痛ではない。これは一般論だ。
20歳を過ぎたばかりの頃からずっと、僕はそういった生き方を取ろうと努めてきた。おかげで他人から何度となく手痛い打撃を受け、欺かれ、誤解され、また同時に多くの不思議な体験もした。様々な人間がやってきて、僕に語りかけ、まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通り過ぎ、そして二度と戻っては来なかった。僕はその間じっと口を閉ざし何も語らなかった。そんな風にして、僕は20代最後の年を迎えた。
今、僕は語ろうと思う。
もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。
しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈み込んでいく。
弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれないと。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。
村上春樹「風の歌を聴け」冒頭より