「生産的になろう」を読んで、ピンと来た内容

割りあてられた問題についての考察と解決策が、今から仕事を再開するにあたってとっても為になりそう。

割りあてられた問題

割りあてられた問題というのは、人からこれこれをやるようにと言われた問題のことだ。「動機付けさせられて」なにかするという場合、人はすすんでそれをやるようなことはなく、その成果も芳しくないということが、いくつもの心理学の実験から明らかになっている。(中略)どうやら人の脳みそというのは、やれと言われてやることには深い忌避を感じるものらしい。

不可解なのは、この現象が他人から言われた場合のみに限られず、やろうと自分で決めた場合でも起こるということだ。「X をやらなくちゃ、これはもう今すぐにもとりかからなければならない最重要事項なんだから」と自分に言い聞かせる、するとたちまち X はやり始めるのが世の中でいちばん億劫なものになってしまう。ところがここで Y が最優先事項になると、当の X のほうはずいぶんととりかかりやすいものに見えてくる。

自分で自分に課さない

「さあ、ほかのことにかまけてる場合じゃない、机にかじりついてでもこのエッセイを完成させなきゃ」ついこう考えてしまいがちだ。さらにひどくなると「それじゃこのエッセイを書きあげたらだな、キャンディをご馳走してあげよう」などと自分に買収までもちかける。ところがだれかにやれといわれてなにかやるというのは、もっともまずいやり方なのだ。(中略)自分で自分にタスクを課しているところに違いはない。そうなれば、脳はそこから逃れるあらゆる手立てを講じるようになるだろう。

楽しめるようにする

いわれているとおり、たいへんな仕事というのは楽しくなさそうに見える。だけどじつは、それは僕がやることの中でいちばん楽しいことなのかもしれない。困難な問題は、それに挑むものを飲み込んでしまうというばかりじゃない。その先には、重要なことを成し遂げたというすばらしい感覚が待っている。

だから、自分になにかさせようというときの秘訣は、自分に対してしなきゃいけないんだと説得するんじゃなくて、それは楽しいことだと説得するということなんじゃないだろうか。そしてもしそれが嘘になるようであれば、楽しくする必要があるんだ。

結論

生産性にはさまざまな神話がつきまとう。時間は交換可能であるとか、集中することはよいことだとか、自分へのご褒美が効果的だとか、きつい仕事は楽しくないとか、先延ばしはよろしくないとか。だけどそういったことはみんな、あるテーマを共有している。現実の仕事というのを、人の生来の気持ちに逆らったものとみなす概念だ。

たいていの人にとって、またたいていの仕事に対して、これはあたっているのかもしれない。くだらないエッセイだとか、意味のない書類の整理だとかをするのにやる気をそそられなきゃいけない法はない。社会がとにかくやれと命じたのなら、やめちまえとささやく頭の中の声には耳を貸さないようにすることを学ぶ必要がある。

だけど、やりがいのあることや、クリエイティブなことをやろうというのなら、脳みそをシャットダウンさせるなんてのはとんでもなく間違ったやり方だ。生産的になる本当の秘訣というのはそれとは正反対のところにある。自分の身体に耳を傾けるんだ。腹が減ってたらなにか食えばいい、疲れていたら眠ればいい、飽きてきたら休憩すればいい、楽しそうで興味のわくプロジェクトなら進めていけばいい。

すべてはあまりにも単純なことのように思われる。へんてこな略語だとか、意思決定とか、成功した実業家からの推薦状なんてのは関係ない。それは常識のようなものだといってもいい。ただ世の中の仕事の定義が、僕らを間違った方向に押しやってしまう。生産的になりたいのなら、踵を返して正しいほうを見据えるだけで十分なんだ。

人からやれと言われた仕事ほど、フツウにやると、やる気も出ないし、進みが遅い。仕事を好きになることが大切なのは理解した次のステップ。じゃあどうすんの?って時に、その仕事を楽しむってことがあるんだろうな。仕事を楽しむと同時に、もっと大事なこと。楽しめる仕事を選ぶってことがあるんだろうね。僕の場合、仕事そのものに加えて一緒に仕事をする人たちも大事な要素になるな。その人たちと楽しんで仕事が出来るかどうか!!が大切なんだ。僕の場合。